秋月の歴史

秋月のまちづくり

秋月の歴史は古く、992年の年の『岩清水文書』に記載されて以来、1000年以上の歴史を誇ります。
現在の町内の構造は秋月氏12代や黒田氏16代などの長い歴史を経てきたもので、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

秋月全景

現在に残る城下町の整備は、江戸時代に黒田氏によって行われました。北側に藩主の居館である秋月城や上級家臣団の屋敷が配置され、寺社や下級家臣団の屋敷は山裾を囲むように配置されています。

町地は枡形に区画整備され、身分の低い武士や商人が住んでいましたが、人口増加に伴って枡形の外にも町地が拡大していきました。

主な史跡

黒門

「黒門」は初めは秋月氏時代の古処山城として裏門として建造されました。豊臣秀吉による九州平定で秋月氏は移封されましたが、「黒門」は江戸時代に入って黒田氏による秋月城の大手門となりました。

現在は、黒田秋月藩初代藩主長興を祀る垂裕神社の神門として数多くの観光客が訪れる名所です。

黒門

長屋門

江戸時代初めに、御館奥御殿の御門として造られました。

門の両側に門番などが住む長屋が続いているのがこの門の特徴です。 現在は梅園の入り口になっています。

現在は、黒田秋月藩初代藩主長興を祀る垂裕神社の神門として数多くの観光客が訪れる名所です。

長屋門

杉ノ馬場

秋月城前の道はかつて、杉の並木があり武士たちの馬術の稽古に使われたので馬場と呼ばれました。

明治時代に、町人たちが杉の代わりに一軒につき一本の桜を植えましたが名称は変わらず、現在にいたるまで満開の桜並木がトンネルを形作る春の名所になっています。

杉ノ馬場

腹切岩

九州平定のおりに秋月氏の家臣、恵利暢尭は秀吉の軍勢を目の当たりにし、主君である秋月種実や重臣たちに秀吉に降ることを進言します。進言を却下された彼はこの岩の上で自らの妻子を道連れに切腹し、秀吉に降るように訴えました。

のちに、黒田長興によって腹切岩の近くに鳴門観音堂が、昭和に入ってからは殉節碑が建立されています。

腹切岩

眼鏡橋

町地の入り口にかかる眼鏡橋は、8代藩主長舒によって架橋されました。

それまでにあった木の橋はたびたび洪水に流されており、長崎守護のおりに見た長崎町内の石橋に感銘を受けて長舒は長崎の石工を招聘します。最初の石橋は竣工直前に崩壊し、長舒は完成を見る前に逝去しましたが、9代藩主長韶の治世でついに石橋が完成します。当時は「長崎橋」と呼ばれていたそうです。

昭和初期に自動車への対応のためにコンクリートで舗装されていましたが、2006年に架橋当時の姿に復元されています。

眼鏡橋

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